2017年11月30日木曜日

ハレルヤ賛美の足跡

賛美の足跡(2)
焼け野原で
 母はどのようにして食いつないできたのか、とにかく今日あるを得ている。物心がつき始めた当時、貧乏のどん底にいたという思いはそれほど強くはない。
 どのような経緯で借家に入れたのか、母に尋ねたことがないのでわからない。城東区野江西野町3丁目がわたしの記憶にある。国道1号線から狭い路地に入り込んでさらに狭い路地の突き当りに借家があった。
 路地から国道に出ると道の向こう側にパン屋があり、そこへよくお使いで行った。数日経った売れ残りのパンを買うと、安く、紙袋に一杯入れてもらえた。母はそれを鍋で蒸して柔らかくし私達に食べさせるのである。芋粥、団子汁、100%大麦の飯(パラパラなので多少の粉を入れると塊になる)などが通常の食べ物であった。練った粉を電熱器の上で焼いただけの具のないパンもよく食べた。「銀シャリを食べてみたい」「誕生日には赤飯を食べたい」などがささやかな願いであった。誕生日祝いの思いではない。
 当時、疎開できた人々は、一応食べられたのではないか。疎開先のない者らは誰もが貧しい生活レベルだったに違いない。
 3歳違いの妹は明るく、マイペースで過ごしていた。わたしは小学校1年生で6歳下の妹を背中におんぶして近所の子供たちと遊んだ。小さな一塊の家の集まりを抜けると、一帯は焼け野原である。チャンバラごっこ、べったん(めんこ)、手作りの水鉄砲遊び、胴馬、缶蹴り、ビー玉、お砂味、探偵ごっこ、水雷艦長、将棋、ケンケン(石蹴り)など、おもちゃが無くても日が暮れるまで面白く遊んだ。隔たりある年齢差に関係なく皆仲よく遊んだ。
 焼け野原では、鉄くずを集めることもした。銅銭などは高く売れ、家の経済の足しにしたものである。それらは働きではなく遊び感覚だった。
 母は本職を生かして繕い物や仕立て直しで生計を立てた。それだけでは食ってゆけないので、学校給食のおばさんをしてみたり、屋台を出しておでんを売るなどした。給食係では残り物に与ることができた。
 

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