2017年11月30日木曜日

ハレルヤ賛美の足跡

賛美の足跡
(1)戦時生まれ
 1941年12月8日、真珠湾攻撃を皮切りに太平洋戦争が始まった。昨年、ホノルル日本人教会での伝道奉仕のために3か月ハワイに滞在した。その終わりごろに、某新聞社の読者欄に、抽選でパールハーバーツアーへの参観希望者を募る記事があった。この手の希望申し込みで抽選に当たったためしがないのだが、通知が来た。妻と二人して参加した。ハワイ時間では12月7日が真珠湾空襲の記念日になっている。戦艦3隻、ネバダ、オクラホマ、アリゾナが撃沈された。戦艦アリゾナは引き上げられず、未だ海中にあり、その戦艦をまたぐ形で白色の記念館が建っている。記念館からはまだ油が戦艦から滲み出ている様子がうかがえて風化されていない。
 真珠湾から約2か月後、わたしは大阪市大淀区で産声を上げた。戦争末期、1945年3月13日、第1回目の大阪大空襲がスタートした。終戦まで合計8回の大阪大空襲が繰り返された。3歳半では記憶が乏しいが、B29戦闘機が群れを成して来ると、メガホンを持った警告者が広場の真ん中に立って、「空襲警報発令」と大声で叫ぶ。母はわたしを背中におんぶして防空後へ駆け込む。壕の中は防空頭巾をかぶった人々が息を潜めて戦闘機が去ってゆくのを待つのである。母によれば、防空後から防空後へ走る時に、焼夷弾が雨のように降り注ぎ、破裂した破片が体に突き刺さって命を落とす者も大勢いたと言う。B29の襲来の音は不気味で、その音に伴って警報サイレンが鳴り続ける。戦争中の恐怖は大人たちのそれとは比較にならないだろう。あまり記憶にないが、戦後、飛行機が飛来する音を耳にするとおびえることがしばしばであった。
 1945年8月15日に終戦を迎えた。大阪は丸焼けに近かった。母が長崎への買い出しから帰ってくると木造の家は灰になっており、ミシンを生業としていた母は、灰の中に鉄の塊が埋もれていたと言う。母は住む家を失い、省線(現JR)「天満」駅と「桜ノ宮」駅との間に、淀川の支流「大川」にかかる鉄橋の下、雨を凌げる所で数か月過ごした。我が家だけではなく、数世帯が助け合いながら過ごしたそうである。

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