2016年4月20日水曜日

永遠の仲介者

 「そこでまた、彼(キリスト)は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである」(ヘブル7:25)


 神のみ子イエス・キリストは、永遠に、人に奉仕し続ける立場をお取りになりました。実証された科学的法則は、誰もそれに異議を唱えたり、立ち入ることが出来ないのと同様、人を神に近づけるキリストの力を妨げる者は誰もいません。わたしたちが困難や悩みに遭遇するとき、いつでも祈れる場があるということはありがたいことです。時空を越えて耳を傾けてくださいます。台所からでも、大通りからでもお聞き上げ下さいます。祈る場所、祈る時間というものはありません。言葉にならないうめきのような祈りにも親身に傾聴してくださいます。
「彼(キリスト)は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」(イザヤ53:12)。「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」(ルカ22:32)。主イエス・キリストが捧げられた祈りを読むとき、つねにわたしたちのサイドで執り成しておられるのがわかります。「我らの主の天における生活は祈りである」(H.B.スィート)。

私は子供の頃に神に祈ることを覚えました。この時から神は私の慰めであり、明日への力でありました。どんな小さな祈りにも神は耳を傾けてくださいますが、主に近づくに従い、祈りの心が変化してきているように思います。「あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることが出来るようにし、心の目を開いてくださるように」(エフェソ1:17,18)。神への理解が深まりますと、信頼と安心をもって神に近づくことが出来る、と聖書は証言しています。

キリストを生きる

「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、人々があなたがたのよい行いを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:16)



 義弟家族とわが家とで能登半島の海に遊んだことがありました。キャンプ場から眼下に美しい日本海を望むことができました。わたしたちはテント村の仲間入りをさせてもらったのですが、その夜の光景を忘れることができません。外灯や電灯が全くない夜のテント村で、各テントの中ではそれぞれの方法で灯りを灯(とも)していました。すると、赤や黄色、青などの様々なテントの色が闇に浮かぶのです。その上、家型、ドーム型、三角型など、テントの形のままにくっきりと浮かび上がります。美しい光の芸術の祭典のようでした。
キリストの精神が弟子たちの心に宿ったとき、彼らは皆互いに違った個性や教養の持ち主でしたが、キリストの命は、それぞれのかたちで現されました。人々は弟子たちの共通点をこう言い表しています、「彼らはイエスと一緒にいた者である」(使徒4:13)。
能力や賜物は人によってみな違います。わたしたちはみな、年令、性、環境、仕事、家族構成、経験、社会的身分、能力など、いろいろ違っています。この世では、これらの違いが差別を生み、争いを引き起こす理由となっていますが、本来、違いそのものが争いの原因をなすものではありません。人間に内在する罪が自己中心に生きる世界を作り上げるのです。この性質がある限り、能力も賜物もすべて差別や争いを生み出す道具に用いられます。キリストの心を受け入れるとき、それらは隣人の祝福のために働きます。それぞれの個性は花壇の花のように美しい違いをしめします。異なることが差別の理由ではなくなります。互いの違いは美しさを引き立てる理由となります。平和的で、魅力的に発揮されます。違いを超えてキリストの精神、キリストの命が現わされます。キリストの命が現される時、あなたに与えられている賜物が最も美しくその価値を発揮するときでもあります。あなたを通して周りを祝福する光がきらきら輝きますように。


2016年4月12日火曜日

わが神を楽しむ

わが神を楽しむ 
 

「わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ」 
                   (イザヤ61:10)

 「楽しむ」という用語は、満足を意味します。わたしたちは楽しい事柄には、できることなら、四六時中浸りきっていたいと思います。その事を思うほどに気分が爽快になるのです。車が好きな人は、車をいじり、車を運転し、車の本を読み、カーアクセサリーを集めます。寝ても覚めても車のことを考えることが楽しいのです。
ダビデは神ご自身を楽しんでいました。その心境を謳(うた)っています。「わたしが床の上であなたを思い出し、夜のふけるままにあなたを深く思うとき、わたしの魂は髄(ずい)とあぶらとをもってもてなされるように飽き足り、わたしの口は喜びのくちびるをもってあなたをたたえる」(詩篇63:5)。
愛する者が相手のために最上のもの(命をも)を与えて愛の証を立てるように、彼は、神が無限の好意を自分に抱いてくださっていることを確信します。そのように、神はあなたに対しても善を計り、恵みで取り囲んでくださいます。一見、悪い状況だと思われる経験も、人知を超えた素晴らしい結果を予想することができるようにしてくださいます。何によってそのことを確信できるでしょうか。十字架という背景です。神が人間の持つすべての重荷を身代わりに担ってくださったという歴史的事実です。それは永遠の神の真実です。
神は罪人が救いを喜び歌う楽器となるよう望んでおられます。救いにあずかった人々は全員でハレルヤコーラスを歌うのです。各人は自分の生活そのものが旋律となることを望みます。「音楽家」は“音を楽しむ人”という意味です。クリスチャンは神を楽しむ人々です。神を楽しむ最高の証は、他の人々に救いの喜びを伝えずにはおれない心境です。歓喜は自己の内にとどめておくことができません。唇を突いて飛び出し、賛美し、生活全体が音色を奏でます。あなたの人生経験が美しい音色を奏でる日々でありますように。



親心

 
 「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」(マタイ7の9)

 父と私と妹二人の父子家庭で過ごした時がありました。当時、私は小学5年生。父は、仕事に出ますと1週間から2週間は帰ってきません。その間、私が炊事、洗濯、掃除、買い物などをします。学校が自宅から徒歩2分の近い所にありましたので幸いでした。父が帰ってくるとうれしくてたまりません。父は1日~2日の休みを私たちと共に過ごします。父の休日はいつもお決まりのコースを辿ります。私たちを連れてまず一杯飲み屋に行きます。父が酒を飲んでいる間、私たちはおつまみの豆をぽりぽりほおばるのです。その次はパチンコ屋。父が楽しんでいる間、私は落ちている玉を捜し、それでキャラメルを獲得したりします。妹たちは父のそばで辛抱して待っています。父の興趣が冷めると、今度は場末の映画館で三本立ての洋画を見るのです。
子供たちにとって決して良い環境とは言えませんでしたが、私たちは父が共にいてくれるだけで充分満足だったのです。父は前科者でしたし、母から見れば悪い夫だったと思います。しかし、どういうわけか、私たちにはとても優しい父でした。
人も動物も、親の愛で次世代の命をつないでいると言えるでしょう。近頃、家族の絆がおかしくなっていますが、本来はそうではありません。神は親の立場を持つ者の心に愛を埋め込まれたのです。

私どものことを一番心配してくださる天の父が共にいますことを覚えて日常を過ごすとき、信頼と安らぎの大気の中で呼吸することが出来ます。