2016年3月15日火曜日

見抜く力

見抜く力 
 
  
 「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」(フィリピ1:9)

 愛を表す新約聖書のギリシャ語にはいくつか種類があります。恋愛、親子の情愛、友愛、神の愛などがそれで、それぞれ区別されています。ヘンリー・ドラモンドが言っているように、「愛は人生のエネルギー」で、人を動かす力ですが、偏よった愛、思い込みによる愛、善意ではあっても押し付け的な愛などは、他に対して刃物になることがあります。神のみ言葉を通してキリストの人格を学ぶ時、愛の本源であられる神の真実の愛、無私の愛に近づきます。それは傷つけない性質であることはいうまでもありませんが、愛は「高さ」「深さ」「広さ」「長さ」を持つものとして、その理想であるキリストを目指しています。
だいぶん前のことです。調律士を養成する音楽学校の理事長がわが教会の礼拝に出席してくださいました。礼拝後の挨拶の折に感謝の辞を述べ、続いて彼は親切にもこう言ってくださいました、「先生、ピアノの音に狂いが生じているようです。良かったらウチの生徒をよこしましょうか」。
調律士は、音叉の音を基準に、研ぎ澄まされた耳と神経で、微妙に狂ったピアノ音を調整します。卓越した耳の人は、瞬時にわずかの狂いを見抜きます。「見抜く力」は、上記の聖句の文脈によれば、善悪を見分けるというよりは、愛の特徴を掘り下げ、もっとすぐれた愛を追い求めるように、そしてキリストにある愛に成長するよう奨励しています。絶えざる愛の求道者としてキリストを仰ぐ時、神はその道を一歩一歩辿れるように導いてくださるのです。




神を見る

神を見る

  「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る」(マタイ5:8)

フィリピンのセミナリーで学んだ1年半の最後の仕上げは、パナイ島での1ヶ月間に亘る連続伝道講演会のお手伝いでした。その間に、1泊2日間のお休みを頂いたことがありました。アジアで働く15人の牧師たちと共に、滞在地からバスで3時間、舟で20分の小さな島ボラカイ島に行きました。透明度の高い海の深い所は紺碧、浅瀬はエメラルドグリーン、海から眺めた島は白砂のラインに緑の椰子の葉が立ち並び、何かのグラビア写真で見た光景そのものでした。海のきれいなことに皆口々に感嘆していると、まもなく舟は真っ白な砂浜にすべり込みました。ひとりの韓牧師は、うれしさのあまりズボンをまくりあげ、深さ30センチほどと見た岸辺で舟から飛び降りたのです。ところが、彼のからだは頭まで水面下にもぐりこんでしまいました。そこは彼の身長よりも深かったのです。澄んだ世界は深い所でもすぐ近くに見えるものですね。

「心の清い人々」は、見えない神、いと高き天の神を見ています。「心の清い人々」は罪のない人のことではありません。むしろ自分の罪深きことがよく見えるのです。「心の清い人」とは、自分の罪深さについて正直な人、心が真っ直ぐな人で、何に目を向けたら良いのかが分かる人です。神の臨在を身近に体験した人は、さらに神を見ることを求める経験に入ります。神が見えると自分が見え、自分の生き方が分かり、人生の本当の意味が見えてきます。自分で心を清くすることが出来ません。キリストがあなたの心を清くしてくださいます。あなたの目をキリストに向けさえすればよいのです。すると、あなたを清くするキリストのみわざがはじまるのです。


救いの香り

救いの香り  


「命から命に至らせる香り」(コリント第2、2の16)

 神の直接のみわざは命をもたらす活動です。「神のいやしの力は、自然のあらゆるものに見られる。木が切られたり、人が負傷したり骨折したりすると、自然はすぐにその傷の害を回復し始める。いやしの働きは、その必要が起こる前から用意されていて、ある部分が傷つくと同時に、一切のエネルギーは回復の働きのために注がれる。霊的な世界においても同じである」(E・G・ホワイト著「教育」136頁)。 キリストの精神に生きる者は、このように自己の存在そのものが周りにいやしと元気を与える香りでありたいと望みます。食品会社「三育フーズ」の前身にあたる食品工場が三育学院カレッジの労働部門として学生たちの勤労精神養成と技術習得の場であったとき、そこのパン工場で働くSさんは神学部の先輩で、わたしと同室でした。彼は授業よりも労働に力を入れていました。ある日の昼食前、彼はパン工場から寮に戻ってきました。たちまち部屋の空気が一変し、美味しそうなパンのにおいが充満したのです。空腹だったわたしは思わず叫びました。「S先輩!あなたを喰ってしまいたいよ!」。早朝からお昼までパン工場にいた彼は、すっかりパンのにおい漬けになっており、彼自身は気づかずにいたのですが、周辺に焼き立てのパンの香りをふりまいていたのです。キリストとの交わりの中に日を過ごす者はこれ似ています。意志的な活動だけではなく、無意識的な感化をまわりに及ぼすものです。言葉づかいやふるまい、微笑などによって接触する人々に命と元気をもたらします。「愛はすべての過ちをおおう」「優しい舌は命の木である」「ここちよい言葉は蜂蜜のように、魂に甘く、からだを健やかにする」(箴言10の12、15の4、16の24)などの聖句に見られるように、神のご臨在のうちに幾分留まる者は、無意識のうちに周辺に天国の雰囲気をかもしだす力となりましょう。

神のみ手にある駒

神のみ手にある駒 
  

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということをわたしたちは知っています」(ローマ人への手紙8;28)

神を愛する者とは、すべての瞬間に神の意志が働いていることを知っている人々のことです。この事実に目が開かれますと、人生に新しい視点を持つスタート地点に立ちます。世界観、人生観がまったく新しくなります。
じゅうたんの裏側は、織り糸が複雑に入り乱れて走っています。一見、わけが分かりません。しかし裏を返して、その表を見ると見事な孔雀の絵が描かれていたりします。人生は、一見矛盾に満ちているようですが、神は、あなたの人生のための完全な絵を用意しておられます。この世の艱難や悩みは、あなたの救いを遠ざける勢力にはなり得ません。信仰によれば、むしろ、それらはあなたの至福へと前進させる神の手のうちにある駒となります。
聖書によれば、神の呼び名は百以上あります。そのうちの一つは「不思議」です。神は、わたしたちの見通しを超越する不思議を行う方です。神がわたしたちに試練に会うことを許される時、わたしたちが神の絶大な愛の対象であることを確信する機会となります。試練は、わたしたちの人間性の弱さに目を開かせ、救いの永遠の保証であられるキリストに堅く立つよう導きます。人生の終わりに立って、わたしたちは困難が祝福であったことを確証できるようになります。災難だと思われたことが働いて益となり、失望と思われたことが働いて偉大な祝福となることを知るには、年を取る必要はありません。大事なことは神に対して謙虚になることです。神のわたしたちに対する永遠の目的は、恵みによって罪人を救うことです。


将棋の駒は王将を含めて20あります。すべての駒の目的は相手の王将を詰めるというこの一点にあります。神は、あなたの身の周りの万事を支配しておられます。あなたに対する神の御目的はどの一点にあるか、もうお分かりかと思います。あなたが経験するすべてに新しい恵みを発見なさいますように。